「思いもかけない言葉」  02.08.25    ルカ1:5〜25

 神は、人の救いを実現する際に、ご自身ですべてを行ってしまわれるのでなく、
人々をお用いになられます。
 聖書には、そのようにして用いられた人々がたくさん登場します。
 そして、神はそれらの人々を、救いの御業になくてはならない尊い者とされます。
 これは、神が人間の助けを必要としたということではありません。
 本来ならば、必要などないのです。
 大人が、子供に手伝いをさせるのは、大人が楽をするためでなく、
子供が多くの経験をして豊かに成長してほしいからですが、神があえて
人をお用いになるのも、人が豊かな歩みを進めるためです。
 用いる側の神からすれば、人を用いることは決して楽なことではありません。

 神は、主イエスの誕生に先立って、主を指し示す役割をする洗礼者ヨハネを
誕生させます。その父親として、神に用いられたのがザカリヤでした。
ザカリヤが祭司としての仕事をしていた時、み使いが洗礼者ヨハネの誕生を
告げにきました。ザカリヤ夫妻がその親になると言うのでした。
 二人は、子供を与えられることを願っていましたが、すでに老人でした。
 ですから、そんな喜びはもう与えられないと思っていました。
 しかし、子供が与えられると、確かに告げられたのです。

 洗礼者ヨハネの誕生は、主イエスに目を向けさせるという意味で、
多くの人々にとっても喜ばしい存在です。
 しかしその前に、ザカリヤにとっての喜びとなり楽しみとなることとして
告げられます(14節)。
神がザカリヤ夫婦をヨハネの親としてお用いになる理由は、ザカリヤに喜びを
与えるためでした。神は、何の喜びも楽しみも生み出さないような仕方で、
人をお用いになるのではありませんでした。

 私たちも、神に用いられることで、思ってもいなかった喜びや恵みを味わいます。
 本当ならば得られない楽しみを与えられます。
 教会で、家庭で、職場で「主の御用のためにお用いください」と
祈り求める時に、神は、私たちを喜びで満たすために、あえてお用い下さる機会を
与えてくださいます。